農業ジョブコーチ

やんやん農園ジョブコーチ

私は2021年ごろから、農園ごっこ程度ですが障害を持たれる方と一緒に植えたアカシアとユーカリが育っている畑の管理を有志と一緒にボランティアで続けています。

畑も非営利で社会福祉的に障がい者の為に使うのであればと言うことが地主さんの条件である。地主さんも活動に関わっている。またナチュラルに除草剤などの使用を制限している為、除草は草刈り機の草刈りで対応しています。雨が降ればすぐに畑は膝丈ほどに草ボーボーです。10aほどの畑の管理は相当な負担がある状況なのになぜ続けているのか?

「誤解を恐れず取り繕わないで経緯説明を書く」

①障がい者の年上のおじさんの「谷やん」との出会いからはじまった。

谷やんとの出会いのきっかけは、私が隙間時間を活用して一人で活動を始めた。「地域のお年寄りのお困りごとを支援」する御用聞き活動を始めて1年ほどした頃だった。

(病院へ向かうタクシー乗り場までお年寄りを背負って坂道階段)

障がい者就労支援事業所で事務系的な仕事をしている友人から電話がありました。内容は、その社会貢献的な活動。障がい者とともに活動することでメリットもあるかもしれない。お互いに有益かもしれないから「障がい者と一緒に活動してみませんか」というのがきっかけだった。障がい者と一緒に?不安が大きくよぎった。しかし金銭的なメリットとやらにも興味があった。すぐに話を伺いに就労支援事業所へ向かった。しかし金銭的なメリットとやらは友人の勘違いであることがすぐに分かった。日頃から私の為にと助けてくれる友人だし今回も同じで連絡をくれたのだから逆にありがたいと思ったくらいだ。どちらかと言うと喜んでくれる方の笑顔と感謝の言葉で自己満足感で満たされていた。ただ、この町で誰もしてないことを一人で活動する孤独感や葛藤をちょうど味わっていた。

(時にはゴミ屋敷の片付けも1人でした)

活動でいただく報酬についてだが、無料(ボランティア)では続かない。お年寄り相手に儲けるような報酬をいただくのも私の性分的に無理。単純に当時の消費税額8%をつけて1080円/1時間をいただくようにしていた。そしてとりあえずわからないので、障がい者は1時間540円で単純に私の半分と決めた。やってもないのにそれ以上の金額はとても提示できなかった。それでも全然大丈夫ですよー。と障がい者就労支援事業所の代表が伝えてくれた。そこの代表もどんな人かわからないところから始まった。

そして初めての日。普通に谷やんを連れてきた。もちろん挨拶まではできたが。警戒してかなにも結局喋らんかったような気がする。不安と疲れで死んだようにその日は寝たような記憶がある。半年中略。障がい者就労支援事業所の代表は一緒に汗を流し普通に最後まで覚悟をもって接している姿をみせてくれた。献身的と親身とかではなく障がい者に対して普通にというのが一番しっくりくる感じだ。

何度も活動を重ね私も障がい者を見る目が普通になった。40年以上生きてきて障がい者と少しづつ仲良くなって友達になる経験をした。谷やんは不思議なおじさんだった。世間では障がいは個性ですなどと個性的でもない専門家が「その人らしさを受け入れて」と言っているのを聞いたことがあるが、そんな人からも受け入れられないレベルで堂々と褒められることをしない人だった。だから笑えるような奇跡的なこともたくさんあった。私も普通に障がい者と草引きとかするようになり。いつしか頼りにしていた。

しかしその友達はその矢先に闘病生活がはじまり天国へ向かった。勝手にまだ生きてるのに死んでも谷やんとつながっていたいと私は思ったのだろう。私は谷やんが明日入院しなければという時にみかんの苗木を必死に探し回って仕入れて一緒に私の園地へ定植した。谷やんはもうフラフラだった。それでも植えに来てくれた。谷やんは「やんやん農園」と名付けた。私は世界初の障がい者に農園長になってもらおうと考えた。そして谷やんに伝えると笑顔でうなずいた。たかが、みかんの木を1本を植えただけ。言い方が悪いかもしれないが楽しんでいる私の気持ちを谷やんは100のうち80は理解してくれていたのだろうな・と私は逆に受け止めた。それを他人がどう思うかなんて完全に無視をして。谷やんが障がい者で唯一の農園長という存在となった事にした。それが何かを変えたり。効果を出したりすることではなく。それを一緒に楽しんでいると感じさせてくれた。谷やんを感じることができた瞬間から私はその心のど真ん中を信じて歩いてやろうと思った。

②これからの やんやん農園と、もりやんの活動

全てこれから先で伝えていく事です